04/10

人は、如何して悩むのでしょう。
なぜ素直にあるがままの本能に従って生きられないのでしょうか。
「あ~~」ため息は如何して出るのでしょう。
迷っている自分を他人事のように眺めているもう一人の自分がいます。
本日もブレています。


迷走する魂の内部(なか)で折り合い共鳴する多重人格的要素が台頭します。毎日の出来事が何を意味するのか、問う答えが返るなら未来は生きている証を示すはずなのに。
決まり事のない俗界なれば、謀(はかりごと)の有無が人の心情を左右するのです。


真実を求めて感動する心の鼓動が海鳴を上げて真実を模索しても、闇が覆う結果に嘆き戸惑うのが落ちです。現実は真実を覆い隠し偽りの出来事が繰り返されます。


人は何を求めて生きる。探し求めて何を得る。何を糧に生きる。
心が満たされる喜びに感動することは幾度あるだろうか。


雨が降る、風が鳴く、陽が照りつける。自然の類い形が織なす時燗が精神の強弱と同期して寡黙な歓喜を呼び覚まします。鼓動は停止することなく時は流れ粛々と物事が動いてゆく。憂いの感触が広がります。


それでも時間はさらりと過ぎてゆきます。躊躇無くそんな暇など与えないほどに憂いの瞬間が心を溶かしていく。


心の歪が逃げ惑います。臆病な証か、己の自己満足に嫌気が差していく。
失敗、失恋、物事は繰り返えされるも経験から得た知恵が自己防衛して心を守ります。本能的に再度の痛みを負う事を嫌って心が保守的になる。その傾向が加速します。
以前に起こった出来事の経験が記憶に残り負荷の容量が増えれば必然的守りに入る。


それに、“気持ち”が共鳴する。感情の抑制もここが仕切っているから裏切られて痛い目に遭う。そして気持ちが傷つき心に闇が広がります。
そこに暖かな微笑みにであったなら戸惑うのも無理はない。その微笑みが素直なら微笑がえしで心が踊るのです。人とは単純にして、あほらしいほど素晴らしい生き物らしい。


だから今迄、落ち込んでいたのがケロッと心が入れ替わってコロッと純情になる。なんだったのだ、今までの気持ちは!


で、掴み所のないのは今の人生と、己の感性の未熟さで感情を抑制できない事を、ただあほらしいの一言で片付ける心地よさは何処から来るのだろうか。それは、ただのものぐさなだけか、それとも自己防衛による思考のひ弱さゆえか。それともただの馬鹿なのか。


憂いより極まりない、ボツの方がスッキリするのだが敢えてそれをしないのは如何いう事か。


要は、いい加減な気分屋に過ぎない自分を、可愛いいと思い込むところが蹴飛ばしたくなる。それが出来ないので苦しんでいる。まあ、根が不精ゆえに気持ちが先行して物事が前に進まないだけの事なのか。


でも気持ちの建前と本音が同時進行すれば今日もいい日になるだろうにと、考える素直な気持が迷いブレる人生を蔑ろにしているのも事実な訳で。


今日は、...しながらでは心許なくて、自分を推しの無節操さを考えてはブレている自分を億劫に感じている他人のような自分を嫌らしく思っているのです。
まあ、本音はいい加減な能書きに縋りついて、やらなければならない事をしたくないの言い訳を建前風に愚痴っているだけに過ぎないのかも。
不精者ほどブレやすいのです。(*˘︶˘*).。.:*♡







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