04/26

今日の朝は雨が降っていたのにいつの間にか晴れ間が見えて仕事のやり繰りに気持ちが揺れ動きます。外仕事なので雨の場合はお休みにしています。(自分勝手な生き様で仕事仲間には無理を承知でご理解させています。)


だから、寝床から見たときには雨が降っていたので仕事を休む段取り(気持ちの加減)をしていたのに、朝飯を食べる頃には雨も上がり晴れて仕事をする羽目に。


その自分勝手なオッサンは気まぐれで、お調子者ゆえに、ヨイショされると気分が高揚してホイホイ気分で何でもやりだす始末。で、事を済ませて後振り返れば期待通りの物事にはなっていない場合が多々あるのも事実な訳で!でも、そんな時にもセンチメンタな気分など蹴飛ばし現実を直視して気持を奮い立たせます。


「失敗がなんだ」そうです。行き当たりばったりの計画性に乏しい脳細胞は本人が良くご存知だから希望は捨てずに些細なことなど蹴散らして出来上がった環境を受け入れるしかないのに。「お願いできるのは、あなただけ」 この言葉に舞い上がったのが憂いの原因だったりします。遊んでばかりじゃ、生活も干上がってしまいます。


だから、その場その場の請負を賄って生きています。お銭(あし)を得るために生きる為に、遅くまで仕事する。貧乏人に課せられた課題は金を稼ぐこと。


でも、失敗は深く掘り下げないのが私のモットー。それが取り柄になっているから整合性などは捨てちゃって、「ありのままじゃダメかい!」そんなこと言ったら依頼主も怒るのは無理もございませんが。今回の仕事は、イマイチでした。


「まあ、いいか」


妥協は不揃いの言い訳を駆使して相手にお返しするのがいい。返礼が少なくなっても、ご飯と好きな物が食べられたらいい。ただ、落ち込む期間が長引くのが私の欠点。その欠点を解消する為に、大好きなロールケーキをやけ食いして嫌な出来事を胃袋の中へ流し込む。


後悔は災いを紛らわす不純な気持が纏わりつきます。でも好きなモノがあれば素直にご機嫌になるのはどうしてでしょうか。甘いモノが生き甲斐の人生ならその瞬間にその時を自由に生きて来た者だけが感じ得た喜びだったりして。


だから人生、生きていると色んな出来事や時に物事を進める上で滞る事が起こります。その言い訳として人には向き不向きという言葉が使われる。その場面に、その場合で躊躇する意志が逃避して決断が鈍り過ちを犯します。


失敗という嫌な言葉を捨てて曖昧な責任逃れの様な言い訳をして事を済ませる。「責任は、私じゃない」とでも言いたげに。「人には、向き不向きがあるのよ、気にしちゃダメ」でも、この言葉は時に本人をいたく傷つける場合がある。才能がないとハッキリ言わないのが優しさなのかもしれないが。


「無理なのよね、あんたには」


この言葉の意味を理解すれば、あなたは無能な人。無能とは才能が無い。才能が殆ど無い、何事にも。(ごもっともです、本人も自覚しております)でも反省はいっときの上塗りだったりして。事を起こしてポシャってその理由付けに。「私には、こんな事、不向きだったの」で、事を済ませる薄情者です。


その時代に、その時合いに時は不都合を都合良く魅せかけて人の心を惑わせます。だから優しい気持ちが仇となる。けれども不具合を二の次にして優しさは憂いのはじまりでもあるのです。その憂いの片割れ(ネコさん)が心の癒しをもたらします。気持ちを和らげてくれる。
同居している猫がいる。(ただ、気が向いた時に(双方とも)傍に寄り添う間柄)一緒に住んでいると飼い主に似てくるものですね。でも私は彼ほど気性も激しくはないがお調子者の性格が似ています。


そして、仕事のやり直しには、それなりの勇気と心構えが必要になります。決断を下せない自分を情けなく思う。でも気持が落ち込んでいる時に相棒が側にいればいい。無口な相棒だけど、時に自己主張して鋭い爪が凶器と化すのがたまにキズ。私の顔に無数の傷跡があるのもコヤツの仕業。その猫も気まぐれで私の相手をする。私も気兼ねなくコヤツに話せる。私の気持を理解している素振りを時折お見せになるから離れなくなるのです。


それと私の様に泣き言を言わないのがいい。


でもねこさん、私と違って気が向いた時にしか相手をしてくれません。(。 >﹏<。)


その猫様は近頃、お留守が多い。
すこしでも暖かくなると家を空ける日が続きます。
一日中、家を開ける日もある。そして、お腹が空いたら家に戻って来る。
そのねこさん、我家が本当の住まいなのか近頃、疑問に思います。
人生、行き当たりばったりの生き方がいいのか近頃、疑問に思います。明日は仕事の手直しをしなければいけない。あ~気分が冴えない。


生きるってセツナイね。






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